備中神楽の発祥 |
備中神楽は、この地方の原始信仰である荒神の鎮魂をうながす祭りである。 「鎮魂」とは・・・ 人間の生命の根源は神で、神の分身が人間であると考えたのが、日本人の古い信仰である。 年々の神祭りは、遠い祖霊としての神への崇祖であるし、生命を支えるための、農作の豊穣祈願と感謝であった。 とりわけ大切なことは、神の分身である人間の、生命の長久を祈願することであった。 神がかりになって、分身である人間の体内へ、神を呼び戻すことによって、願いが達せられるとかんがえられていた。 神代神楽が備中神楽に挿入される以前の荒神神楽は、神事色の濃いものであった。 近隣の神主が集まり、清めの儀式・悪霊払いの先舞(猿田彦の舞い)・五行・悪霊払いの後舞(剣舞い)が荒神神楽の基本となっていた。そこには、天地・森羅万象を司るものとして神を崇め、神の霊を招きもてなす「おこない」がなされていた。 江戸末期(文化・文政)ごろ、京、上方では諸芸が盛んな時代であり、能・狂言・歌舞伎・浄瑠璃・落語・曲芸などが円熟期を迎えていた。その時代に京都で国学を学ぶ神官の西林国橋が旧来の荒神神楽に演劇性の高い芸能(神代神楽)を再編、挿入した。そして、そこに神職でなく玄人の神楽太夫(神楽師)が登場することになる。熟練した太夫が芸を競うことにより、更に演劇性が高まっていった。 現在の備中神楽は、神事・神事舞・演劇舞・神事舞・神事の五段階の形が厳守られている。巫女舞系の清めの舞いと出雲神楽系の出雲神話に基ずく神能が整然と一体となり神事が進められている。古い信仰の精神を受け継ぎながら、その時代時代の人々の魅力をつなぎとめる高い芸能性が、今なお農村娯楽として、郷土芸能として、備中人に愛されているのである。 |
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荒神神楽 |
荒神神楽の荒神とは、一般的には火の神、竈神とされる。しかし、この地方では、この土地をひらいた地神の精神的な神格が強い。荒神は、「あらぶる神」として、凶作、疫病、災害などが続くと、荒神の祟りであると信じて、神人を招き、荒神の鎮魂を願う神事が、もともとの「荒神神楽」であった。 現在、「荒神神楽」は、式年に行われる。 ふつう、十二支の一回りする十三年目、あるいは、その中年の七年目におこなわれる。 そして、この年式祭は、宮(みや)神楽、株(かぶ)神楽などのどの祭りをもしのぐ大々的な祭りとなる。 |
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神代神楽 |
西林国橋(こっきょう)が編纂(へんさい)したとされる。 神代神楽(じんだいかぐら) は、岩戸開き・国譲り・大蛇退治(おろちたいじ)・吉備津の四編といわれている。江戸時代末期になって備中神楽に挿入された演劇色の濃い神楽である。吉備津については、他の三篇より以前に神楽化されたと考えられている。出雲、石見神楽では見ることのできない演目となっている。神代神楽は、近世に西林国橋が創案した神能の一つとして、備中神楽を構成する重要な要素となっている。 |
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西林国橋 |
明治元年(1764)川上郡福地(しろち)(現:高梁市福地)生まれ。本名、西林要人。(1764~1828) 遊び文化の華やかになった文化文政期(1800年前後)に、京都の諸芸能の影響を受けて、既成(きせい)の基本的な芸能要素の上に、「古事記」「日本書紀」、さらに「古今和歌集」を中心にしたいくつかの和歌を引用し、今に見る神代神楽の基礎を創ったと考えられる。 |
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参考文献 | ||
・大塚 尚男氏「備中神楽面」 |
・三村 信介編「備中神楽」 |
・山根 賢一著「備中神楽」 |
・大塚 尚男氏「神楽新聞」 |
・逸見 芳春編「神楽絵巻」改訂版 |
・神崎 宣武編「備中神楽の研究」 |
・神崎 宣武文 山陽新聞サンブックス「備中神楽」 |